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2011年12月12日月曜日

「復帰闘争と反復帰論」講座報告

12月3日、沖縄県復帰っ子連絡協議会と合同で、詩人であり思想家の川満信一氏をお招きして「復帰闘争と反復帰論」というテーマでご講話いただきました。
この講座は、これまで復帰っ子連絡協議会が独自に開催していた「復帰あの頃を知る」という勉強会シリーズの第3弾です。

復帰40周年を来年に控え、復帰の年(1972年)に生まれた「復帰っ子」がこれからの沖縄について考えるにあたり、まずは自分たちのアイデンティティーのひとつである「復帰」について学ぼうと、様々な立場の方からお話を聞き、多角的に知ることを目的としてこの勉強会がはじまりました。
第1回目は、「復帰の推進力 −屋良朝苗と復帰運動−」をテーマに、元沖教祖委員長の石川元平氏をお招きしてお話を伺いました。
第2回目は、復帰時代を知る保守の立場から、元自民党沖縄県連会長の西田健次郎氏をお招きして「祖国復帰とはなんだったのか」をお話ししていただきました。

第3回目となる今回からは、若狭公民館と合同で開催しています。



1960年代に入り米軍関連の事件・事故が頻発すると、それに我慢ならないということで「祖国復帰」が求められました。
川満氏は、「その中で沖縄の代表を国政参加させるというのは、形式的なアリバイづくりだった」と指摘しています。
「その矛盾に気づくべきだったが、情緒的な満足感だけで復帰してしまった。国政参加を拒否して再考しようという動き、それが反復帰論の始まりだ」ということです。

日本ではなく中国に帰属する、あるいは独立だという「反」復帰ではなく、「非」復帰という意味での「反復帰論」だそうです。
沖縄の言葉、自然と風土は異質だとする新川明氏の「反復帰論」が一般的に理解されているが、川満氏の思想は、沖縄戦で亡くなった犠牲者の視線から見る立場をとっているということで、同じ「反復帰論」でも、思想が異なると聞いて興味深く感じました。



川満氏は「イギリスの産業革命から始まった近代国民国家が国民・民族という概念を作り出したが、それは国家の枠のたがを締めるための意識操作で、その近代国民国家の構造に対し、国家のありようの矛盾を指摘するために、タブーであった「非国民」を敢えて使って反対した」とも言っています。

このほか、
「天皇制を中心とする日本の国家体質」
「震災、原発事故以降の「がんばろう日本」というキャッチフレーズについて」
「アメリカ・イラク戦争の理由づけ、生物兵器」
「恩納村の科学大学院大学」
「『現代の眼』(1981年4月号)での原発労働者の実情報告」
など、話は膨らんでいきました。

会場からは、
「琉球処分は強制的だったが、復帰は自ら望んだ。この流れをどうみるか」
「復帰を知らない世代としてどうみればいいのか」「当時人権を取り戻すという意識が強かったと思うが、現在に活かされていないのでは?」
「復帰運動の経過、日の丸・君が代に対する意識の変化などはどうだったのか」
「うちなーんちゅの心とは?」
という興味深い質問が次々と投げられました。



特に最後の質問は興味深く、
「宮古・八重山にしてみればかつての琉球からの支配もある。民族という概念はアレルギーがある。「シマの人間」といいたい。」とし、「琉球独立論はナンセンスだと思っている。80年代につくった「琉球共和社会憲法」は、国民国家に囚われない二重国籍的な連帯の仕方をイメージした。」と答えていました。

最後は、現在のグローバル資本主義にもふれながら、「100年先に想像力をもちたい」と長期的なビジョンで思考し続けることの意義を話されました。


※講座の様子は、OAM(沖縄オルタナティブメディア)の協力でUSTREAM中継しました。
 真ん中の再生ボタン「▷」をクリックすると、録画映像をご視聴いただけます。


たいへん興味深く、勉強になるお話が聞けたのですが、私自身の思考の速度がついていかず、脳内は飽和状態になっていました。
しかし同時に、「なるほど」と腑に落ちるところも多くあり、このような勉強会を継続して行う意義をあらためて感じました。

今後もまた別の切り口で勉強会を開催する予定です。
詳細は決まり次第、HP、ツイッター、facebookでお知らせします。

(宮城)

→ 第2回「祖国復帰とはなんだったのか」(西田健次郎氏)USTREAM動画はこちら。