2013年6月18日火曜日

わかさ妖怪さんぽ


 去る6月14日と15日の二日間、市民講座「わかさ妖怪さんぽ」が開かれました。若狭公民館職員のわたくし、小原が企画したのですが、その経緯はこんな話から始まりました。

 若狭公民館の下地館長と地元の歴史などについて話をしていたときのことです。ふと、耳切坊主の話になりました。耳切坊主とは若狭の護道院にいた怪僧で、妖術を使って金品を巻き上げたり、女たちをたぶらかしていましたが、首里の大村御殿にいた北谷王子に最後は退治されてしまうという、昔話の登場人物です。
「それがさ、その護道院の井戸が若狭に残っているんだよ」と下地館長。
「ほんとですか!」そんな話は初耳です。てっきり護道院跡は、過去にダイナマイトで爆破されてしまったユーチヌサチ跡にあって、現在はなくなってしまっていると思ったからでした。

 そこでさっそく見に出かけたのです。
 果たして井戸はそこにありました。外見はコンクリートで固められていましたが、中をのぞくと石積みの遺構が残っていました。

それを見ながら下地館長は、ぼそりとこんなことを言ったのです。
「小原さん。耳切坊主ってのは悪者扱いされているけれども、僕にはどうしてもそんな風には思えないんだよね」
「それはどうして」と私。
「若狭の人たちの間では耳切坊主の話はタブー視されていて話をしない時期もあったんだけれど、でも悪く言っている人はあまりいないんだよね」

 そこで図書館などで資料を片っ端からあさりました。すると、いくつかの文献には、黒金座主(耳切坊主となった人物の僧侶名)は実は高名な僧侶であった可能性もあるという事が書かれていたのです。

 また「おきなわの民話百選」(沖縄県生活福祉部/刊)という本には「黒金座主のお化け退治」という、黒金座主が主人公で化け物退治をする話まで載っていました。ここでの黒金座主は怪僧なんかではなく、昔話に出てくる典型的な善人のお坊さんでした。


 しかもその後、護国寺の名幸住職に取材させていただく機会が会った時に、黒金座主のこともあわせて聞いてみました。




「それがですね。黒金座主のことについてはあまりわからんのです」と名幸住職。「戦争で貴重な資料がすべて焼けてしまったもので。今の本殿下の駐車場の下に貴重な資料を納めた倉庫があったのですが」




 こんなところにも第二次世界大戦の暗い影が・・・。
「しかしですね」と名幸住職は話を続けました。「先代(名幸住職のお父様)が戦争前に、歴代の住職の名簿の中に黒金座主という表記を見たと言っていたんですよ」
 これは歴史的なことです。なんと怪僧と呼ばれていた黒金座主は、首里王朝ゆかりの護国寺の住職だったのです。
 なぜそんな位の高い寺の住職が、妖術使いの怪僧となって人々をだましたのか。そしてなぜ今まで子守唄になってまで語り継がれるのか? 護国寺の住職は王朝から任命されなければなれなかったはずなのに、それほどまでに高名な僧侶が、なぜあのような妖怪変化になってしまったのか。


©琉球新報/小原猛/ミキシズ りゅうPON
連載「琉球妖怪大図鑑」より「耳切坊主」(禁転載)


 いくつかの資料には興味深い記述があります。「球陽」の外巻として編集された「遺老説伝」の口語訳(1960年初版)には、黒金座主はもしかしたら首里王朝と政治的な対立をして、粛正された可能性がある、というようなことが書かれてありました。

 つまり、王朝もしくは北谷王子と政治的な対立の末、殺されてしまい、あのような話がわざと流布されたのではないか、という可能性です。

 そしてもう一つの着目すべき点は、あの語り継がれる子守唄です。あの歌の中で、耳切坊主は何人にも増えるのです。そしてこどもの耳をぐすぐす切りにくるという、なんともおぞましい、子守唄とは思えぬ展開をします。あれでは人を恐怖に陥れるだけで、子守唄としての機能はまったく果たしていません。

 もしかしたらあの子守唄および耳切坊主の伝説は、政治的対立により粛正されてしまった黒金座主を慕っていた若狭の人々が、復讐のために考えついて、わざと首里周辺で流した一種の恨み節のようなものではなかったのかと、推測されるのです。

 まあこれも一つの説です。事実は沖縄戦と一緒に、護国寺の地下書庫の中で焼けてしまったのです。もしかしたら永遠に解明されないかもしれません。

 そのような経緯で、若狭に伝わる耳切坊主の話を調べて行ったのです。
 また調べて行くうちに、若狭地域には妖怪変化の話がいくつも残っている事に気づきました。

 潮渡橋のたもとに現れたと言われている仲西ヘーイ。呼んだ人は必ず神隠しにあうと言われています。
 海の近くにあった豚の屠殺場近くに現れたといわれるワーマジムン(豚の妖怪)。
 今でも動いていると伝えられる、奥武山公園近くにある小高い山、ガーナームイ。
 久米三十六姓の末裔であった鄭大夫の前に現れた牛マジムン。
 辻に夜な夜な現れては、小禄のがじゃんびら坂まで乗せてくれと人力車に手を挙げたジュリマジムン(遊女の幽霊)
 なんなんだ若狭って地域は!と、怪談をいくつも取材してきた私も、さすがに驚きを禁じ得ませんでした。

 そんな話をまとめて、講座としてみなさまに紹介してみよう、それによって若狭という地域の歴史も見えてくるのではないか、という趣旨で企画されたのが「わかさ妖怪さんぽ」という講座です。またそこに沖縄妖怪の歴史や系譜、キジムナーの名前の変遷や生態なども盛り込んで、わかりやすく説明するようにしました。おかげさまで二日間で72名もの参加者があり、テレビ局二社も含めてマスコミ五社の取材を受けました。








 一日目の講座では、若狭公民館で職員小原が沖縄の妖怪の歴史について資料をもとに説明を行い、二日目は若狭公民館を機転として、鄭大夫の唐守森から波の上、護国寺をまわって、火返し(ヒーゲーシ)のシーサーのあるケンサヤー跡(シーサームイ)をまわってから、護道院跡井戸、そして夫婦瀬公園をまわってから、最後は潮渡橋で皆様を代表して私が「仲西ヘーイ!」と絶叫して、幕を閉じました(笑)

 沖縄の妖怪については、まだまだしゃべり足りないところがあります。今回は定員にすぐ達してしまったので、多くの皆様にお断りをいれなければならなかったことを心苦しく思います。また近いうちに、第二回も行いたいと思いますので、その節はまた、よろしくお願い致します。(小)