みなさんはウィリアム・ボード事件をご存知でしょうか?
ウィリアム・ボードは、その昔、ペリー提督と一緒に日本にやってきた水兵の一人です。ペリーは日本に都合三度程やってきたのですが、その二回目の来日の時に、ボード水兵はレキシントン号という船にやって沖縄に来ました。
夜に他の水兵と一緒にこっそりと船を抜け出したボードは、泡盛を飲み過ぎて酔っぱらってしまい、なんと当時五十四才だったウミトゥおばあをレイプしてしまいます。
それに気づいた渡慶次カマさんをはじめとした何人かの沖縄県民がボードに石を投げながら追跡し、やがてボードは崖から転落して死亡。
やがてそれを知ったペリーは怒り心頭、ボードを殺した渡慶次カマをはじめとする六人を引き渡せと要求します。(明らかにボードが悪いと思いますが、これはアメリカ側の言い分。そのころから日米関係は上下が決まっていた感があります)
結局、渡慶次カマには八重山流刑、他の者も宮古流刑の刑罰が言い渡されて、事件は一応の解決(しかし彼らに実際の刑罰が施されたかどうかは定かではありません)
そしてウィリアム・ボードの遺体は、泊にある外人墓地に葬られました。これが実際のウィリアム・ボードの墓標です。
この時に埋葬を手伝ったのが、ベッテルハイムという有名な宣教師でした。他にもペリー提督の部下だったものたちの墓が泊の外人墓地にはあります。
(ここからは未確認情報なのですが、一つだけ墓標のない墓がこの中にはあるようです。ペリーの部下で病死したものなどの墓も残っているのですが、その中の一名は黒人水兵だったようです。その水兵だけ、墓標がないとのことでした。空いている場所にひっそりと葬られているようです。ここにも差別をはじめとするアメリカ文化のことが伺えて興味深いです。)
もともとは中国の人たちの墓地だったようですが(若狭周辺は久米三十六姓といって中国からの移住者が多い地域でもありました)、その後米兵を中心として葬られるようになっています。
これが最も古いと言われている中国人移住者たちのお墓です。
ペリー提督の昔から、日米関係というものはあまり変わっていないのかなと、そんな思いを抱いてしまいました。
そんな事件があったことを踏まえて、この泊外人墓地のウィリアム・ボードの墓標を眺めるとき、よく今までこの墓標が壊される事なく残っているなあと、しみじみ思いました。
行ってみるとわかりますが、このボードの墓標、隣の病死した水兵の墓標よりも一回り小さくなっています。おそらく不名誉な死に方をしたので、そのせいだとも言われています。左が病死した水兵の墓標、右がウィリアム・ボードの墓標です。
もし泊にいらしたら、琉球のそんな裏の歴史にも思いを馳せながら、ウィリアム・ボードの墓標を探してみて下さい。泊外人墓地は泊港のそばにあります。(小)