6月15日に公民館の周りにある拝所や歴史のあるスポットのフィールドワークをしてきました。
本日のメンバーは、若狭1丁目自治会長の岸本さんと、前島自治会長の伊地さん、若狭公民館から佐藤が参加しました。
まずは雪の崎(ゆーちぬさち)へ。
ここは若狭町(わかさまち)の中央北側に広がっていた「上の毛(ウィーヌモー)」と呼ばれる高さ20m程の岩礁台地(がんしょうだいち)の突端。古くから拝所として利用されていました。岩の一部が、公園用地に取り込まれ、周辺住民の拝所として利用されています。
シーサー火の神は、火事を防ぎ波や台風を防ぐ大切な拝所。今のシーサーは3代目です。
(2代目若狭シーサーは若狭公民館の2階にいます♪)
波上宮崖下(波の上市民ビーチ北西側)海の彼方のニライカナイ・神の産室といわれています。
波の上ビーチから波の上宮に向かっていく途中で伊地さんが「このあたりは地下に洞窟があって子どもの頃にろうそくを持って探検したんだよー」と!なんと!私たちの今いる足元に洞窟があるといいます。印象的な体験だったようで今もよく覚えてられるとのことです。若狭小5年生くらいの頃に同級生たちと探検したそうです。当時誰と行ったのか覚えていらっしゃらないとのことですが、どなたか一緒に行ったよー!という方、または別だけど探検したという方、ぜひ、若狭公民館までお知らせくださいね。
つづいて仲地紀仁とベッテルハイム居住の地、記念碑へ。波の上ビーチの裏にあります。
広報誌でも取り上げたことがありました。仲地紀仁の腕を見込んだベッテルハイムによって、牛痘種痘(予防接種の一種)を伝授されました。薩摩の政府から西洋人との交流を禁じられていた時代だったため、仲地紀仁は波の上の洞窟の中で教えを受けたそうです。
もしかしたら伊地さんが探検した洞窟と同じ洞窟かもしれませんね。
続いて行ったのは『カガンヌティラ(鏡の寺)』
ここには昔、辻遊郭開祖に関わりのある「海蔵院」と言われるお寺が建っていたところです。辻開祖の三人の王女の名前と侍女(ウサザカイヌアンマー)の名前が刻まれた位牌が祀られています。
ここは知っている人しか来ることができないですね。普通の民家です。
公民館のすぐ近く、若狭町大通り跡として石垣が残されていました!普段よく通る道なのになんとなく通ってしまっていて気づいていませんでした。今の道路とは平行に走っていないことがよくわかります。古地図などと比べてみると面白そうです。
よく見てみると看板がありました!足元を見てみてくださいね。
松山公園内に入っていくと井戸がありました。ユーナヌカーといって、若狭の人たちの飲料水として大切にされ豆腐作りにも使われていたところです。豆腐というと繁多川のイメージがありましたが、このあたりでも作られていたんですね。
公園を抜けて、最後にたどり着いたのは長寿寺跡。
松山の繁華街のど真ん中です。こんなところに史跡碑があるなんて!全く知りませんでした。どこにあるかわかりますか?
お二人が立っている奥に碑がありました。
このあたりが浮島だった頃、長虹提(浮島をつなぐ海中道路)を造る際、二昼三夜祈って、ようやく海底が現れたそうです。難工事を可能にした神仏に感謝して長寿宮と長寿寺がつくられたそうです。現在は浮島神社と名前を変えて、波上宮の境内にある小さな祠としてのこっています。興味が湧いてきたので調べてみると久米、松山のあたりの浮島をつなぐ長虹提は宗元寺まで1キロにおよぶ道だったようです。
葛飾北斎の琉球八景にも描かれていました!
長虹秋霽若狭のあたりは昔からある那覇のまち。自分たちの住むまちの歴史を意識できるようにするためにはどうすればよいか、みんなで考えてみたいと思い、まずはまち歩きをしてみました。意識して歩いてみると、見慣れた景色がこれまでとは全く違う光景に見えてきて、大切なことを訴えかけてくるような感じがします。少し知ったらもっと知りたくなってきました。
若狭公民館は今年で30周年を迎えました。30周年を記念して「地域の歴史についても再認識したい」「子どもたちに伝えたりすることも考えたい」とまずはまち歩きをしてみました。(sato)