2026年9月16日水曜日

十・十空襲となぐやけの碑 ― あの日の沖縄を忘れないために

1944年10月10日、南西諸島を襲った空襲

1944年10月10日、米軍の空母から発進した艦載機が、沖縄をはじめとする南西諸島を一斉に攻撃しました。これが「十・十空襲」です。

米軍の主な攻撃目標は、飛行場や船舶、軍事施設などでした。しかし、県都・那覇では民間の居住地域にも焼夷弾による攻撃が加えられ、大きな被害が生じました。

空襲は午前6時40分の第一次攻撃から午後3時45分の第五次攻撃まで、約9時間にわたって繰り返されました。攻撃に参加した米軍艦載機は延べ1,396機にのぼり、爆弾や焼夷弾によって那覇の街は大きな被害を受けました。

那覇では市街地の約90%が焼失し、街は壊滅的な被害を受けました。


10・10空襲時の那覇港および旧那覇市街
(沖縄県公文書館所蔵)

空襲に隠された、もう一つの側面

十・十空襲には、沖縄の軍事施設などを攻撃するだけでなく、情報を収集するという側面もありました。その後の沖縄戦で米軍が実施した「アイスバーグ作戦」には、沖縄の地形や軍事施設についての詳細な情報が必要でした。米軍は空襲と並行して艦載機から航空写真を撮影し、その空中写真などをもとに沖縄の地図を作成して、後の作戦に役立てていきました。


破壊された那覇市 1945年
(沖縄県公文書館所蔵)


沖縄戦へとつながる犠牲

十・十空襲から半年余り後、1945年3月、沖縄では本格的な地上戦が始まりました。

沖縄戦は、日本国内で唯一の大規模な地上戦となり、多くの住民を巻き込みました。沖縄戦による犠牲者は20万人を超え、那覇でも十・十空襲から沖縄戦の終結までに2万8千人余りの市民が命を落としました。

十・十空襲は、沖縄が本格的な戦場となる前に、人々の日常と街が戦争によって大きく破壊された出来事でもありました。


10・10空襲後の波上宮第一鳥居一帯
( 那覇市歴史博物館 提供 )

「なぐやけの碑」に込められた祈り

戦後50年にあたる1995年、那覇市は「沖縄戦終結50年宣言」を行いました。

そして翌1996年、恒久平和への願いを込めたモニュメントとして、「なぐやけ」が建立されました。



「なぐやけ」は、にあり、戦没者を追悼するとともに、二度と戦争を繰り返さないという平和への願いを伝える場所となっています。

十・十空襲から80年以上が過ぎた今も、那覇の街には、あの日の記憶を伝える場所が残されています。「なぐやけ」の碑を前に、私たちは、戦争によって失われた多くの命と、焼け野原となった那覇の街を思い起こすことができます。

碑文と説明文は、以下のように書かれています。

碑文

モニュメントの裏側


生きぬき 築き上げた都市

那覇――その戦後は

米軍のバリケードで囲まれた

焼野が原から出発した

はじめに

一〇三人の市民が生きぬいてもどった

なつかしい壺屋のまちに

多くのいのちを失い

ふるさと那覇も消滅し

悲しみは深かったが

打ちふるう復興の鍬には力があふれ

みんなまなこを

しっかり前へ向け

踏み出した

生活と都市再建の一歩を

それから

心のいしじを固く敷きつめ

平和通りをつくり

国際通りを開け

もう二度と失うことのない

那覇を築いてきた

ここにくるまで五十年

一〇三人は三十一万へとかわった

那覇――それは戦争をしない都市

那覇――それは市民の愛が守るまち

那覇――それは市民が主人公の都市

那覇――それは世界の都市を友とするまち

私たちは いま、ここに

市民の誇りと勇気により蘇った

都市・那覇を世界に宣言する

一九九五年・沖縄戦終結五十年記念宣言

那覇市


説明文 



沖縄戦は、一九三一年の柳条湖事件にはじまった日中戦争以来、十五年に及んだ戦争の最後の激戦であり、日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦でありました。

一九四四年十月十日の空襲によって、那覇市は灰燼に帰し、翌年四月の米軍上陸から三ヶ月余に及んだ沖縄戦は熾烈を極めました。その結果、那覇市民の戦没者は二万八千人余に及び、沖縄全体では二十三万人余の尊い人命が失われました。

わたくしたち那覇市民は、戦争の惨禍を決して忘れることなく、愚かな戦争を再び繰り返してはならないと深く決意するものであります。

那覇市では戦後五十年の節目にあたり、那覇市連合遺族会の提案に基づき、戦没者の名簿を奉納し慰霊するとともに、恒久平和への強い決意をアジアや世界の人々に伝えるため、那覇市平和宣言を行い、ここに恒久平和のモニュメント「なぐやけ」を建立いたしました。

「なぐやけ」は「穏やか」「和やか」という沖縄の古語で、いつまでも平和でありますようにとの祈りが込められています。