第3回目の「私にできること」はゲストにマルチミュージシャンの津嶋としひとさんをお迎えしました。テーマは「知ることもできること。」
人の役に立ちたい、誰かに喜んでもらえることがしたい、と考える時にすぐに浮かぶのは、ボランティア活動や寄付など。近しい人になら、プレゼントするなんてこともありますね。そういう「できること」とは毛色が異なる印象の「知ること」。どんなお話が聞けるか、とても楽しみでした。
まず最初に自己紹介から。
紹介の中で、モロッコのギンブリという珍しい楽器でグナワ音楽を聴かせて下さいました。そして、途中から参加者の皆さんも一緒に演奏に加わり、手拍子を打ち、習った言葉を合いの手で入れて全員でモロッコの音楽に触れました。
そして、トークスタート。
プロフィールを読むと、圧倒されます。
「ルーマニアで生まれ、ニューヨーク、ハンガリー、イギリスなどで育ち、ロサンゼルスの音楽学校で学び、2005年より沖縄に住む。」
これを見るだけでも、相当いろいろな体験をされてきただろうな…ということが伺えます。現在は、モロッコの音楽を現地に学びに行くこともあり、モロッコのムスリムの人々と関わる機会が多いそうです。
なので、日本でのムスリムに対する誤解や偏見などに胸を痛めることも多いとか。
まさに「知らない」ことで、傷つけていたり、手を差し伸べることをしなかったりもしているはず。これは、人種の異なる人のみならずだな、と思いました。
ムスリムの中でも様々なタイプが存在して、超・敬虔な人々もいれば、酒浸りの人もいて、一口に片付けられらないのだそうです。なので、豚も食べてるしビールも飲んでいるムスリムという人も存在するというのです…。
しかも、おもしろいのは自分が戒律をしっかり守っていても、やっていない他人に対してとやかく言わないのも特徴で、それは、神様との契約だから他人が介入する問題ではないという考え方だから。「怠ったらご利益もないけど、知らないヨ。」というような感じのようです。こう書くと、他人のことはお構いなしのようにも映りますが、そんなことはなく、人のために祈るお祈りもあるそうです。
また、最近日本でも有名になっているハラルフードも、本来は「正しく屠殺された豚は食べても良い。」という解釈で、正しくとは、豚の耳元でコーランを唱え、完全に落ち着かせてから首を切るやり方のこと。豚は首が太いので痛みがものすごく強い。しかしその痛みを感じさせないように屠殺したものならOKという考え方だそうです。
また、ラマダンと呼ばれる断食についても、知らないことばかりでした。
例えば、この期間は悪い考えをもってはいけない。なぜなら、この期間は天国の門がぱっと開き、悪魔は鎖でつながれている時期なので、もし悪い思いが浮かんできたら、それは他でもない自分自身からでてきたものになります。
また、ラマダンは貧しい人の気持ちを理解するためのもので、昔はコーランを読んで静かに過ごしていたといいます。けれど、今は盆と正月が来たかのようなどんちゃん騒ぎだとか。時代とともに変化するのはどこも同じなんだな…と思いました。
そうは言っても、非常に厳しく実践している方もいて、例えば日本に働きに来ていても戒律を守っている方などは、ものすごく過酷な生活をしていたりもするそうです。
実際、津嶋さんもムスリムとして生活してみた時期があり、ラマダンもやったことがあるとのこと。もちろん日本でです。
ラマダン中は空腹で喉も渇き、力が入らない…。頭痛がする。しかも、絶対怒ったり、悪い考えをもってはいけない…。
想像してみても、ムリだな…と思います。これがさらに夏で肉体労働だったりすると、死なないかしらと心配にもなります。周りでも同じように耐えている人がいればまだしも、異国の地でそれをやり遂げる精神力はすごいものだと思うのです。
ところで、津嶋さんがムスリムの生活をしてみたのは、音楽に説得力を出したいと思ったからだそです。最初の方でご紹介したグナワという音楽をやる中で、歌詞を勉強して意味もわかるようにしてきたけれど、その歌詞の中で歌われている内容は、自分の生活の中に取り入れていないもの。なので、生活を優先しつつもKoran(コーラン)を読んで、お祈りを覚え、できる限り実践してみたそうです。
そのように、身を以てやってみたことで「知る」ことができたと言います。
やってみると、彼らのことがわかる。そして、わかると助けることができるとお話されていました。まさに知ることはできること。
若狭公民館の周辺はイスラム圏から来ているらしき若者も多くいるので、この日お話を伺って、彼らがここ沖縄でどのような思いを抱き、どんなふうに暮らしているのか知りたいなという気持ちが芽生えました。とても面白く、貴重なお話を聞かせて頂けた時間でした。津嶋さん、本当にどうもありがとうございました!